ISOに「感動」と「物語」を…

isokis.exblog.jp
ブログトップ
2008年 01月 21日

ISO再生支援と阪神・淡路大震災のあの時

1)ISO再生支援

当社では、「運営しやすいISO、そして経営に役立つISO」を目指しての「ISO再生支援」を行っています。
あなたの会社のISOはお元気ですか。
運営しやすい、また、経営に役立つISOになっていますか。

下記の該当する(☑)事項が多ければ、ISO再生が必要です。
□ 会社の業務拡大・変更、組織変更があっても文書等の変更ができていない。
□ ISO9001の文書体系は、1994年版のなごりで規定が多く、複雑で、運営が
大変である。サーベイランスでは、この規定に関する指摘が多い。
□ 理解しにくい文書表現になっており、そのために経営者に理解されていない。
□ 経営課題がISOに展開されていない(ISOで経営改善が進んでいない)
□ 品質方針や環境方針が長年、変更されていない(見直しがされていない)。
□ 内部監査を実施しているが、不適合の指摘が少ない。
□ マネジメントレビューを実施しても、経営者からの改善指摘が少ない。
□ ISO9001を導入したが、クレームや社内不良が減らない。
□ 改善テーマを探すのに苦労している。
□ サーベイランスの時期が近づくと準備に忙しい。

「ISO再生」が必要でしたら、
「ISOの掃除屋さん」の神戸国際システムに声をかけてください。

ISOの掃除屋さんの神戸国際システムです。
経営トップとISOをつなぐパイプがつまっていませんか。
掃除をして流れをよくすることによって、ISOの有効性、顧客満足度は向上します。
神戸国際システムは、「ISOステップアップシステム」と「顧客満足度診断プログラム」の運用を提案しています。
ISOの掃除屋さんの神戸国際システムにお問合せ下さい。

神戸国際システムの「ISOステップアップシステム」と「顧客満足度診断プログラム」が、
新しいISO審査(1月11日の日経新聞記事)に対応できるものとして期待が寄せられています。
神戸国際システムは、これらの実践的運用を希望される企業に、「企業内セミナー」を行います。
お問合せください。

①経営トップとISOとの流れをつくる「ISOステップアップシステム」
 ・経営課題を明確にして、ISOに展開し、その成果を評価し、改善する。
 ・現状のISOの効果的運用(ISO再生:フォローアッププログラム)から、飛躍的収益
  を生み出す「IMSON(イムソン)マネジメントシステム
  (Integrated Management   System Operation News:運用成果をめざした統  合マネジメントシステム)」へ移行するためのステップアップシステムである。
 ・IMSONマネジメントシステムは、(社)日本品質管理学会第35回年次大会研究発表会
(2005年11月12日)で、日本復活に向けての「Revival Japan21」構想と題する研究発表の中で、新TQM「IMSONマネジメントシステム」として紹介している。

②顧客満足度を容易に測定できる「簡易型・顧客満足度診断プログラム」
 ・ISO9001は、「8.2 監視及び測定、8.2.1顧客満足」の要求事項として、顧客満足度の
測定を要求している。本プログラムは、それに対応できるものであり、しかも統計的手法を使うことなく、誰でも容易に理解し、運用できる。
 ・簡易型「顧客満足度診断プログラム」は、(社)日本品質管理学会第80回研究発表会
(2006年5月27日)で紹介している。

2)阪神・淡路大震災のあの時、
 今日、1月17日を迎えました。

震災から13年、また今年も巡ってきた。
前夜の平穏からして、誰が翌朝の大震災を予想しただろうか。
私は、いつもの朝と同じように、浴室でシャワーを使っていた。
まさに、頭からシャワーをかけようとしたとき、南北方向に数回、大きく揺れ、次には上下に激しく揺れて、さすがに私はシャワーハンドルを放り出して、バスタブにしがみついた。
そして南北に強く揺れて、ガタンと北方向に大きく揺れて止まった。

停電になり、裸で懐中電灯を探し、台所で朝の支度をしていた妻と、倒れた食器棚で散らばった床を見て驚いた。
天井からお湯が落ちてきた。
上階の部屋の給湯器が倒れたのを後で知った。熊本の実家に電話した。また、会社の保安室に電話して状況を聞いて、上司の家に電話した。 しばらくして、娘が台所に来た。突然のことで娘の存在が私の頭になかった。
本棚が倒れ、本の整理をしていたという。申し訳ないと思った。
余震が続く中、妻子を港島小学校に避難させ、私は、所属していた技術開発部の建物や職場のパソコンの存在が心配で、脇浜の工場に走っていった。

ポートアイランド側の神戸大橋のところは、一面、水浸しである。水道管が壊れたかと思ったら、これが液状化現象で、地面から湧き出たことを後で知った。神戸大橋は歩いて渡ったが、自動車の通行は規制されていた。JR三宮から脇浜までの途中の生田川の近くの高いビルが、今にも倒れそうであった。
工場には、心配してすでに10数名が工場の入口に立っていた。
建物が全壊、半壊し、中に入ることは危険である。
私も職場の建物に入ることはできなかった。職場の建物は半壊状態で、雨などでパソコンなどが濡れる心配がないことを確認した。
30分近くいたが、自宅に歩いて帰ることにした。
工場の前の道路は、とたんに車で混雑し始めていた。
西に火災らしい煙をみた。生田川の近くのビルは倒れていた。
途中、JR三宮の近くにある本社ビルを見に立ち寄ったが、中には入れなかった。
 
私が住んでいる団地は、6棟、650世帯である。
午後、自治会の役員のリーダーシップで、倒れている給湯器、家具などの整理作業を行うためのグループ編成があり、私も参加した。
建物は14階建、エレベータが使えないので、歩いて各戸を回った。
乱雑になっている部屋の中の整理に当たった。
余震が続く中、寝たきりの老人を最上階から1階の事務所に運ぶのは、大変だった。
当日の夜には電気が来たが、水やガスはこなかった。夜のテレビで、長田区の火災の映像を見た。
2日目の翌日も同じグループで各戸を回った。
2日目の夕方、階下のダイエー店には、多くの新鮮な野菜が送り込まれていた。
ダイエー社長のはからいを感謝した。

会社の東京事務所から安否の問合せの電話があって、3日目に工場に出かけていった。
その日、専務と数人で車に乗って、甲南工場に出かけた。途中、道路は凸凹であった。
工場は、他の会社からの応援部隊を迎えていた。
私は、液状化現象で水浸しになった電気室の泥水を運び出した。そして、脇浜の工場に戻った。

すでに震災復旧本部ができていた。
私は、アナログからデジタル電話交換機への入替業務を担当した経験から、電話復旧担当になった。
電話の復旧は、会社にとって死活問題である。壊れた建物で仕事していた職場は、壊れが少ない建物に移る必要があった。
移転には、電話も必要である。

壊れた4階建ての1階の奥の部屋に電話交換機があった。
2階、3階部分が大きく外にはみ出して、今にも壊れそうである。
停電したので、電話交換機のバッテリーも限界状態にあった。このまま放置すれば、使えなくなる。
発電機を回して、電源の確保が必要であった。
そして、電話交換機の点検も必要であった。
九州のNTTの人、3名が震災復旧本部からの要請で点検に来たが、余震が続く中、しかも今にも壊れそうな建物を前にして、「こんな危険な中には入れません」ということでNTTの人には帰ってもらった。

私は、いつも点検してもらっていた電話工事会社の担当者を呼び、建物の中に入り、点検と発電機からの電線をつないだ。
建物にはいるとき、復旧本部の安全担当部長に「入ってもいいですか」と聞く。
「危険だから入ってはならない」という返事である。そうなれば自己判断で、建物の中に入ることになる。
数日後、建物の玄関から引き込んだ電線は、壊れた瓦礫でつぶされ、断線した。
そこで、建物の横のガラス窓を破いて、新しい電線を引いた。

各職場の移転と同時に、個々の机には電話機が置かれた。
これからそれぞれの電話機に新しい内線番号を付けて、電話交換機と接続する必要があった。私は、2月5日に10名の電話工事業者の人に来てもらって、1日でその接続を終えた。
前日の4日の昼に、妻の母親が郷里の熊本で亡くなったと電話があった。
私は、帰れる状態ではなかった。
そして、5日には私の父親が脳梗塞で倒れて入院したとの連絡があった、妻子は帰省した。
8日には、私が申請資料を作成したことで、専務の科学技術長官賞の審査のためのヒヤリングを受けるために、東京に向った。ポートアイランドから船で、そして関西空港から羽田に向った。

東京の水道の蛇口から、勢いよく水が出てきた。
感激を覚えた。
何も不思議ではないが、この日まで自宅の水道は止まったままである。
毎日のように、給水車から水をもらって運ぶ日々であった。
私は、妻の母親、私の父親のことは誰にも話さず、東京にでてきた。
科学技術庁でのヒヤリングが終わった翌朝、羽田から熊本空港に向った。
妻の兄の家で、亡くなった母親のお骨を前にして、そらんじていたお経を40分間あげた。
母親とは神戸で10年近く一緒に暮らした。
思い出も多い。
そして、入院している父親を訪ねた。
すでに筆談でのコミュニケーションである。
父親は、震災直後、いろいろ心配してくれた。
そして、この筆談でも、会社はどうかと心配し、早く会社に戻るように気遣ってくれた。

その後、わたしは工場の電話復旧とともに、本社が新しいビルに移転した。
そして、新しいビルで電話工事を業者の人と進めた。
新しい電話交換機の納入が遅れることがあったら大変だという営業部長からの要請で、電話工事業者から借りた電話交換機を使って、二重で作業を進めた。
電話番号をそのまま替わることなく、移転できてよかった。
結果的には、ほとんど同日に、2系列の電話網ができた。

私は、震災復旧本部から職場に戻った。
技術開発本部の職場は、プレハブ建物に移転し、その隣には震災前に建てられた実験棟があった。リニア新幹線の支持脚等のテストを行う国内最大級の高速実験装置があった。
技術開発本部の50名が移転し、安全管理に関する届け出が必要になった。
私は、安全管理者となり、安全管理規定等を整えたのは、6月の初めである。6月6日に父親は亡くなった。妻からの電話を受け、職場の人に伝えることなく慰労休暇をとって密かに帰省した。
震災で会社の従業員3名が亡くなった。
一人は4年間、一緒に仕事した先輩で、よく居酒屋でコップ酒を飲んだ仲だった。
倒壊した家屋で下敷きになってなくなったと聞いた。また、私が入社まもない頃、指導してもらった先輩が仮設住宅で亡くなったのを聞いた。
定年後を楽しく暮らしていた先輩を思うと、今でも心が痛い。

その秋、私は技術開発本部を離れ、2年間、会社70年史・技術史の編纂についた。
編纂後、全社の品質管理推進部門に移り、事務局を担当した。
2000年9月、59歳で退職し、11月に東京の㈱グローバルテクノ(ISO審査員教育機関)に入社した。2001年6月、神戸市の起業家育成SOHOオフィスに、第1期生として入居し、2001年7月、有限会社神戸国際システムを設立し、現在に至っている。
[PR]

by iso-kis | 2008-01-21 09:05


<< 1月28日ブログ      一つ一つの歴史 ~西村のひとり言~ >>